英語で Game と言った場合、試合のようなものから、遊び、勝負の行方、策略、仕事、獲物などを指し相当幅が広い。
対象は相手チームや選手であったり、仕事や相場や動物だったりする。
「ライバル」が対象なのである。
日本語でゲームと言った場合、遊びの意味がほとんどで、テレビゲームの様に機械で行うなうものを主にさす気がする(英語では video game という)。
相手が機械で人間味のないゲームである(作者とのゲームとはいえよう)。
日本語のゲームでは「ライバル」はいるような、いないような、何とも分からない。
日本語では「ゲームは遊び」で、「試合は本気」でやるものの様に思う。
試合には「ライバル」がいる。「ライバル」というよりは「敵」に近いのかもしれない。
「本気でやる遊び」という概念が、英語と較べると遥かに薄い様に思う。
例を挙げると、高校野球は「試合」であって「ゲーム」ではないのだろう。
これは日本人の倫理観が、
「果し合い(はたしあい)」
>互いに命をかけて戦うこと。決闘。 (大辞林より)
のような「負けたらそれっきり」という考え方が日本人には染み付いていることから来ている様に思う。
高校野球はトーナメント制で負けたらそこで終わりだから、緊張が強くいつもよりうまく出来ない事もあるし、そもそもどんな恵まれた選手でも生涯で数回しか出場チャンスが無い。どうあがいても3年間で春夏6回が上限なのである。
文化そのものが「果し合い」を良しとするのだろう。それが潔いのであろう。
英語での Game は、試合もあるし、日本語で言う TV ゲームの様なものもあるし、仕事なども Game である。
生涯続けて行えて、降りるもの復活するのも、その参加用件さえ満たしていればいつでもウエルカムという感じである。
「勝ち逃げ」は当然の権利である。「勝ち逃げは許さねえぞ」という子供のようなルールは無い。なおかつ
「そこまで言うなら受けてやっても良いよ。ただしそれ以上負け込んでも知らねえぞ」というのもある。
「当然命をかけるものではない。しかし本気でやらないと面白みが分からない」
という感覚に近いのではないかと思う。
ポーカーなどをしていても、
「今回のゲームはオレが勝つぜ」
という感じで、前回今回次回と続くものを想定している様に思う。
一日の中でも、週を通しても、「都度一回限り」の連続で、根本がリーグ戦なのである。
ゲーム要素(この場合は不確定要素の事)に左右される率が高いと思われるトーナメント制より、実力の差が明らかに出やすいのがリーグ制であろう。
そのため同じリーグで長い間 Game を続けていると、上手い下手が確実に見えてくるから、上手いのは上のクラスへ行く様な感じだ。
見ている目が、日本人(日本語を使う人?)と較べると長い感じがする。
ただ、こういうものは、日本が前回の戦争で負けてから植え付けられた意識もあるのではないかと思う。
戦前の人の話しを聞くと、
「勝っても負けても面白かった」
というのを多く感じたが、今は
「負けて面白かった」
というのはほぼ聞かない。
勝つのが当たり前で、知っているのが当たり前で、
「そうでないといけない」
という風潮を感じる。
これが自分で自分をしめている気がする。