こころ(考え方)の最近のブログ記事


 医療と運動の違いを考えてみると、

 医療の場合は、
・緊急度に伴う優先順位や期限がある(蘇生では5分間以内などもある)。
・病気やけがなどから元の状態へ戻すと、行うべき事が明確である。

 運動の場合はそれとは異なり、
・期限が無い(競技選手は期限があるが、大抵は明確な期限が無い)。
・現状から発展させることなので、計画が建てにくかったり、目標があやふやになりやすい。

 という違いがあると思います。


 運動の場合は、緊急度が見にくいのと、また計画が明確でなくても、特段無理をしなければ危険度も低いので、好きな事だけを選ぶ事も出来ます。

 しかし、競技選手のトレーニングや特定の目標に向かって身体の改善を図りたい場合には、このような選び方は適切ではないでしょう。

 運動やトレーニングを通じて身体の変化を狙うには、時期や期限を明確に捉える事が重要と考えています。

 例えば人間の成長の過程を、
「成長期(幼児期、少年期、成長期。通じて背が伸びている期間)」
「成人期(青年期、壮年期)」
「高齢期(前期高齢期、後期高齢期)」
と分けるとし、それぞれの段階で必要な事を行うのと、

 また同じ年齢としても、
「導入期、発展期、円熟期」
程度に分ける必要があるでしょう。

 また、その人の、運動経験や現在の健康状況等でも、適切なものを選ぶ必要があります。
 健康状態を計るには、既往症やくすりの服用、生活習慣、血液分析値、体脂肪率、筋肉や骨や関節の状態などから見ますが、一般的な人ほど健康状態の幅が広く、
「本格的な運動をするのが初めて」という女性や、
「昔は高校球児だったから体力には自信がある」というメタボおじさんのような様々な人がおられます。

 ウォーキングのような有酸素運動であれば集団指導もしやすいですが、本格的なトレーニングでは誰しも同じ内容で行うのは当然無理があります。
 さらに、成長期や性差も含めて考えるべきでしょう。


 私はこのように、
「全体を俯瞰しそれぞれの段階で必要なものを適切に行うこと」
が、あるべきトレーニング(身体の向上、訓練)の姿と考えています。

 そのためトレーニングプランを組む場合は、競技選手とすると、
「最終的な目標は、○○のような選手になる事。
 暫くの目標は、この技術をこうする事。
 そのためには、ここをこう改善する必要がある。
 だから今の時期は、このようなトレーニングをこの様に行う事が必要である」

というような組み方になります。

 ビルディングやシェイプアップ、健康運動や高齢者の方の運動でも、取り組み方は全く一緒で、


 ところが唐突に方法論から入る方が半分くらいおられる気がします。

 「なぜこの段階でそれが必要なのか?」
という検討がないまま、
 「これにはこのフォーム」「ウエイトリダクションはこうやって行う」というような、本来は全容を決めた後に選択すべき方法論が最初に来ている例を見かけます。

 このような組み立て方だと、必要度から組み立てている訳ではないので、危険性が増えたり、効率が悪くなる可能性が十分に含まれます。



http://hisajp.info/2010/01/post_363.html


 20年くらい前は、医療でも定量化が始まったばかりだと思います。

 その当時は、定量化という均質が作れた訳ではなく、それぞれの医師の先生の個人的経験や技量に期する部分が多かったように思います。
 やがてデータを客観視し、数値で判断する割合が大きく広がり、数値に基づいて処置が進むようになってきました。
 そのため、個人的経験や技量で対応していた事が、経験に関わらず行えるようになってきました。

 高度な経験は高度な技術に用いられるようになり、やはりゴッドハンドの先生はいつの時代も居られます。
 
 
 
 では運動はどうか。
 運動には、「競技という技術要素」と、「トレーニングという身体要素」の二つが含まれます。

 競技の場合は、競技技術と身体要素の合計が、競技成績を左右します。
 競技の成績は優勝、準優勝のような相対的な数値で表す事が多いです。
 陸上競技や水泳などではタイムによって成績を表します。

 しかしこれらは技術要素と体力要素の合計のため、身体能力を分析して成績が分かるものではありません。
 そのため身体要素だけを計るのは難しく、競技成績というもので計る事が多いです。
 また、今回の主題の「トレーニングの定量化」と異なります。


 トレーニングの場合は、身体要素がほとんどで、これは行おうとすればほぼ数値化できるものです。
 そのため、ほとんどの要素はある程度狙って向上できるものです。

 そのためにはきちんと計測して客観的に判断する必要があります。
 例えば、トレーニングや身体に関連の深い指標や測定方法には、

・体重、体脂肪率(二重X線、CT、水中法、空中法)、皮脂厚、周囲径、筋断面積
・心拍数、運動時血圧、血中乳酸濃度、血液分析、呼気ガス(Vo2max)
・垂直跳びや各種走行系のテスト、柔軟性
・1RM 重量、反力、トルク、動作解析

などがあります。

 これらには、医療機関や研究機関でしか出来ないような測定もあり、そのようなものは現場で行うには荷が重いです。
 しかし、年に数回決めて行うような定時的な測定をしているかというと、これもあまり行われていないと思います。
 また、簡易に行える心拍系すら、現実的にはほとんど使用されていません。


 競技は上位になる選手は一部ですが、トレーニングは誰にも同じような率で発展する事が理想です。
 競技は個人に依る割合が高く、トレーニングは科学的に変化を求められるものと、それぞれは異なります。

 しかしトレーニングの現場を見ると、

・ある一定の期間の数値で結果を判断しているというよりも、都度の自分の納得で判断している割合が多い。

・経験で発展割合が大きく異なる。

・それが当たり前と思っている。

というような面が多く見られ、これでは「競技練習」と同じとなります。

 このような点が20年前と全く変わらないのでは無いかと思います。

 そのため「トレーニングの定量化」という考えが出てきにくいのではないかと考えています。



http://hisajp.info/2010/01/post_362.html


http://hisajp.info/2010/01/post_364.html


 私は、運動という手段を用いて健康や身体能力の増進を図っています。

 この「運動」がさす意味は、特定の競技やトレーニングではなく、
「主に運動やトレーニングで行う身体活動全般。広い範囲ではメンタルトレーニングくらいまでを含む」
と考えてください。


 私は、医療と運動は同一線上にあると考えています。
 どちらも人間の生理に基づいた行為だからです。

 そのなかで
「医療は、病気や怪我を治す行為」
「運動は、健康や身体能力の増進を図る行為」
としています。


 医療と運動の違いは、

・医療では、薬物の使用や外科手術のような医療行為が許されています。
 強度な運動は用いなく、運動療法をするにしても 6Mets 以下が指標となっています。

・運動では、薬物の使用や外科手術のような医療行為はできません。
 しかし運動強度を遥かに大きくする事で、相応の生理的な変化をさせる事が出来ます。

と私は考えています。
 
 
 
 医療と運動は、私の感覚として、20年前くらいは同じような段階だった様な気がします。
 その後、医療は著しく進歩しましたが、運動は20年前からほとんど進歩していない気がします。


 これがなぜかと考えてみたのですが、

・医療は、医師や看護師、療法士、検査技術士の様な専門職が行い、患者の技量は関与しない。

・運動は、自分自身で行う事が多く、本人の運動への考え方、知識や技量がそのまま反映される。

のような事からと思っています。


 実は、トップレベルの運動では、選手を含めた専門職同士で行う為か、とても進んでいます。そのため
 「運動では、トップとそれ以外では、20年くらいかもっと大きな差がある」
という方が正確な気がします。


 実は「トレーニングの定量化」というのは結構昔から言われいます。
 例えば、レジスタンストレーニングでは、

「4RM より重ければ、低速パワーが増す」
「10RM なら、筋肥大する」
「20RM くらいなら、筋持久力が増す」

というようなものですが、これらは 20 年かもっともっと前に分かっています。

 このような自然変化的な生理的な現象を数値で捉えたのは、運動の方が医療よりも早かったかもしれません。

 なおかつこれらの数値は今も適切で、人間が動物であるのと、運動が生理的な反応を利用する行為である限り、今後も変わらないでしょう。

 ただしこれはその当時に分かった現象を表しているもので、今となっては20年分の進歩があって当然のはずですが、一般的にはほとんど進んでいないように思います。

 それどころか、20年前のまま停止したようにすら感じることがあります。


 現在と20年前の、医療と運動を比べてみると、

・医療は、20年間経て、著しく進歩した。

・運動は、20年前とくらべ、一般的にはほとんど進歩していない。

と思います。


 なぜそのような違いが出てきたのか、次回考えてみたいと思います。



http://hisajp.info/2010/01/100101.html


http://hisajp.info/2010/01/post_363.html

 あけましておめでとうございます。2010年、今年もよろしくお願いします。


 私のここ数年の研究テーマは「トレーニングの定量化」というものです。

 私の、「トレーニングの定量化」とは、

 「誰もが確実に目的を達成し、継続的に発展する方法を見つけ出す事」

です。皆で一緒に同じ体操をする事ではありません。


 (定量化)
wiki
google


 現在定量化は、「結果を数値で判断する事」から発展し、
「欲しい結果を得るにはどうべきかを導き出す方法」へと移り変わっているように思います。

 しかし自然科学での定量化は難しいものです。
 自然は様々な要因が絡んでランダムに変化して行く為です。

 「トレーニングの定量化」するにあたっては、最低限「トレーニング全体」を数値化する必要があります。
 本質的には「生活全般。その中での身体活動も詳しく数値化しないと出来ない」となります。
 こうなると、かなりのデータ量となり、現実的ではないでしょう。


 しかし定量化を、人体に対してでも、小さい場面ではほとんどいえます。
 例えば、
「10 秒程度以下の運動はクレアチン運動で、ほぼ最大の出力が期待できる。
 40 秒程度の運動は乳酸運動で、それに次ぐ出力が期待できる。
 それ以上の運動は有酸素運動で、出力は前2者と比べ弱くなる」
というようなもので、これは化学反応だからです。

 しかし、これが
「100m を全力で走った後に 400m 走るのと、
 400m を全力で走った後に 100m 走るのとでは、
 どちらが合計タイムが良い?」
となると、ほとんど分からなくなります。

 これらのように個別の現象はいえますが、2つ以上の現象での結果はほとんど想定が付かなくなります。


 さて、「定量化」と混同しやすいのが、「統計」です。

 「統計」は、
「この人はこうなった。あの人はこうならなかった。
 その理由は多分これとそれの違いだろう」
というもので、理由は後付けです。

 「統計」から仮説を立てるのは、通常よく行われます。
 しかし、後付けの理由をあてがって実験してみると、全然違った結果になる事が相当あります。

 ちょっと離れますが、
「霧の日は、交通事故が少ない」
といわれます。

 この理由は、
「霧の日は、走行する車の数が少ない」
からです。

 「想定」だと逆に思うかもしれません。実験も同様があり得るでしょう。


 また、「想定」と「相関」はだいぶ違っている事が多いです。
 「想定」は主観であるに対し、「相関」は事実だからです。

 そのため、自分の思いつく「想定」からは、「今後あり得るかもしれない結果」は他人に対しては全く分からないものです。
 少なくとも責任ある立場では、ここはよく考えて発言すべきでしょう。

 「相関」はもうちょっとよくなって、それより良いのが「定量化」でしょう。


 このように、
 「数値化して欲しい結果を導き出す」
というのが、「トレーニングの定量化」です。


 私のここ暫くの研究テーマの「トレーニングの定量化」というものは、

 「誰もが確実に目的を達成し、継続的に発展する方法を見つけ出す事」

です。


 すべての人に当てはまるトレーニング理論が、最良のトレーニング方法に繋がるのだと思います。



http://hisajp.info/2010/01/post_362.html


 トレーニング初期の順応期は、運動をしていない人だと3ヶ月くらい掛かるが、たとえ自己流であってもトレーニングをしていた人は、大抵は身体的順応は既に済んでいるので、フォームの調整を1ヶ月間程度すれば良い。

 それから先は目的に応じたトレーニングをし結果を追求するが、不思議に思うのは、肥大しない肥大トレーニングを続けて疑問を持たない人が多い事だ。

 「本格的にトレーニングすると、筋肉は増えない」
なんて嘘だ。
 本格的にトレーニングをして効果が出ないのでは、全く意味がない。

 本格的にトレーニングすれば、男性は 5kg/月、女性でも同様か少なくとも 3kg/月程度は、楽に増やせる。


 トップアスリートがオフシーズンにトレーニングをして、身体を作れる期間は2か月程度しか無いが、それで確実に結果を出す。

 トップだからじゃない、誰にでも出来る。

 じゃあ、逆に、
 減量期に体重や体脂肪率が減らなくて、それで減量を達成したと喜ぶか?
 それで正しい減量プログラムと言えるか?


 結果に繋がらないトレーニングはまったく意味が無い。
 こんなの当たり前だ。


 結果を確実に出すのが、本当のトレーニングだ。
 プロセスに満足ではダメだ。
 


 トレーニングというのは何か目的があってする事だから、ある意味、治療やリハビリと同じような面を持つ。

 治療は病気や怪我を治す事で、リハビリは治療を終えてから機能を回復させる事だ。
 例えば骨折していたとすると、まず医師が骨折を治療し、次に療法士がリハビリを行う。
 これには「骨折の治療と、低下した機能の回復」という明らかな目的がある。
 これで骨折が延々と治らなかったり、運動機能の回復という目的に達しない方法は、ダメなのである。


 次にスポーツとして考えてみよう。私の好きなスキーとしよう。

 これが競技スキーであれば、「成績の向上」というものが目的になる。
 その方法として、競技練習を重ね技術を洗練させたり、映像解析したり、トレーニングで体力を上げたり、といろいろな方法があるが、
 「成績の向上」という目的を達しない方法は、ダメなのである。

 スキーの楽しみ方は人それぞれである。
 例えば、ゲレンデで他の人よりはかっこ良く滑りたいとか、ウエアを新調とか、ゲレンデで焼き肉とか、恋人同士でイチャイチャしたいというのも良い。
 ダメというのはない。


 次にトレーニングを考えてみよう。

 トレーニングは何か別な目標の達成の為に行うものである。
 競技の為に行ったり、ビルディングやシェイプアップの為に行ったり、宇宙飛行士のトレーニングの類いもある。
 そこには明確な目的があり、トレーニングの為のトレーニングというものはない。

 トレーニングを効率的に続けるのに最も効果的な方法は、目的に確実に達する事である。
 生理的な機能は誰もが標準的な幅で向上するものだから、成績が平均的な指標に沿って向上しないのは、やり方が間違っている。

 トレーニングにはいろいろな方法があるが、それぞれの時点で適した方法は異なる。
 それをきちんと選択できないと、目的に近づくのが遅くなるか、一生届かない。
 競技選手やビルダー、シェイプアップの為にトレーニングをしている人で、目的に近づかなかったり、一生届かない方法は、ダメなのである。

 何が正しいかというと、目的に近づく事が正しい。


 知らない事はすごく楽しい。
 こんなに楽しい事は無い。
 これからたくさん知る事が出来る。
 謎がたくさんあるほど一生飽きずに楽しめる。


 私が
「知らないのは良い事で、こんな楽しい事は無いです。
 これからいくらでもチャンスがあります」
と話すと、

「馬鹿にしているのか」
「知らないなんて、あんたプロか」
「あんたと話してると頭痛くなる」
という反応を見せる人もおられる。


 世の中で分かっている事は、小学生の習う算数の足し算やかけ算のような、答えが最初から決まっているものだけの様な気がする。
 高度な数学は「世の中の現象を数式で立証できるかどうか」ということだから、答えはやりながら見つける事になる。

 算数と数学は違う。
 小学生の習う算数の様に最初から答えが決まっているものの方が、人生では遥かに少ない。
 
 
 
 身体の世界は広くて深いから、世界のトップの学者と医者と運動選手とトレーナーをたくさん集めても「何も分かっていない」というくらいのものなのだと思う。


 例えば「筋肥大」は、「10RM で何セットか本気で頑張る」を繰り返せば肥大する。

 じゃあ、
「日々の間隔はどの程度で行うと良いのか」となると、簡単に言うと「筋肉痛が消えた頃なら多分そんなに効果は変わらないだろう」となろう。

 じゃあその次に、
「最適化するにはどうすれば良いのか」
となると、最適の前提が「筋肥大」という単純明快な目的だが、

「栄養、休養、現在の身体条件、その他。そのような周辺条件は明らかに言えるか。
 ではそれが言えたとして、それを元に計画した通りに完璧に実行できるか。
 完璧に実行したところで、そもそも計画の時点で完璧な計画だと言えるか。
 新しい事項が露呈したらどうする。
 伸展に伴う条件変化はどのように考えている。
 もっと良い方法が見つかったらどうする」

程度に話しが広がる。そうなると、

 「そんな不確定な事を議論してもなにも進まないから、今やれるところから進めれば良いだろう」
となる。やらないと分からない事の方が多いのである。

 だからなにごとも
「知らないものは知らない」
「やってみないと分からない」
となる。


 もちろんそれぞれの理論は単純に言えるが、
「他の条件が重なった場合はどうなのか」となると都度全く異なるのである。

 筋肉だけでこうなのだから、心肺機能のようなその他の基礎身体的な能力が絡むと変わってくるし、そこに競技技術や審美的要素が絡むと、あきらかにもっと複雑になる。


 やらない人ほどそういう前提条件を全く関係なしに、
「どういうのが最高なんだ」
ということを知りたがる。

 周辺条件の調べようがないのがほとんどだから、知ったところで使いようがないものだ。
 知るのは面白いし大事な事だが、運動やトレーニングで結果を得るには行動をする必要がある。
 知識だけ集めて満足しても、何らかの身体活動をしないと変化が起こらないのが辛いところだ。
 
 
 
 人間の活動は、脳や筋肉、感情という様ないろいろなものがごっちゃになって行われている。

 感情はホルモンの変化で行われる化学反応だ。
 ホルモンが出ると何らかの身体的活動を伴うことがある。
 活動があると今度は別なホルモンがでて、異なる反応が現れる。

 感情が活動に影響を与え、活動は感情に影響を与える。
 玉子が先か、鶏が先か。

 運動は人間の行う活動の中のほんの一部だ。
 運動は筋肉だけで行えるものじゃない。
 美しさや奇麗さだって、筋肉と脂肪と体重だけで出来上がっている訳じゃない。
 
 
 
 やる前から今のプランが最適だと信じ込み、何かあったらにっちもさっちもいかなくなるというのでは、柔軟な考え方とは言えない。

 例えば最初から計画が完璧に作られていると思われるスペースシャトルの往復だって、出発が何らかの人為的や機械的エラーで遅れたり、天候が向かなかったりするし、戻ってくるときだって天候が悪ければ伸ばしたり、降下地点を変更したりする。
 手持ちの水や酸素の量は限られているから、いつかはどうにかしないとならないのである。

 もちろんそれぞれは計画の中に元から入っているが、そういうオプショナルプランを出せる事の方が実際には大事なのである。


 上手く行っていれば別に何も気を使わなくて良いが、プラン通りにやっていたって予定通りに行く事の方が実際は少ない。
 飲み会だってあるし、さぼりたくなる事だってたくさんある。
 家族の体調の悪いのを放っておいてトレーニングに行く事は無いだろう。

 そもそもは目的に近づく為にやるものだ。

 それらをやっていくうちに「その時点でのより良い方法」を見つけられるのだろうから、自分にそういう新しい可能性を見つけるのが、運動やトレーニングなのだと思う。


 柔軟な考え方を重ねていくと最適な考え方に近づくものなのだろう。
 突然与えられるものではないだろう。
 
 
 
 知らない事はすごく楽しい。
 こんなに楽しい事は無いのである。


 英語で Game と言った場合、試合のようなものから、遊び、勝負の行方、策略、仕事、獲物などを指し相当幅が広い。
 対象は相手チームや選手であったり、仕事や相場や動物だったりする。
 「ライバル」が対象なのである。

 日本語でゲームと言った場合、遊びの意味がほとんどで、テレビゲームの様に機械で行うなうものを主にさす気がする(英語では video game という)。
 相手が機械で人間味のないゲームである(作者とのゲームとはいえよう)。
 日本語のゲームでは「ライバル」はいるような、いないような、何とも分からない。

 日本語では「ゲームは遊び」で、「試合は本気」でやるものの様に思う。
 試合には「ライバル」がいる。「ライバル」というよりは「敵」に近いのかもしれない。

 「本気でやる遊び」という概念が、英語と較べると遥かに薄い様に思う。
 
 
 
 例を挙げると、高校野球は「試合」であって「ゲーム」ではないのだろう。

 これは日本人の倫理観が、
「果し合い(はたしあい)」
>互いに命をかけて戦うこと。決闘。 (大辞林より)
 のような「負けたらそれっきり」という考え方が日本人には染み付いていることから来ている様に思う。

 高校野球はトーナメント制で負けたらそこで終わりだから、緊張が強くいつもよりうまく出来ない事もあるし、そもそもどんな恵まれた選手でも生涯で数回しか出場チャンスが無い。どうあがいても3年間で春夏6回が上限なのである。

 文化そのものが「果し合い」を良しとするのだろう。それが潔いのであろう。
 
 
 
 英語での Game は、試合もあるし、日本語で言う TV ゲームの様なものもあるし、仕事なども Game である。
 生涯続けて行えて、降りるもの復活するのも、その参加用件さえ満たしていればいつでもウエルカムという感じである。

 「勝ち逃げ」は当然の権利である。「勝ち逃げは許さねえぞ」という子供のようなルールは無い。なおかつ
「そこまで言うなら受けてやっても良いよ。ただしそれ以上負け込んでも知らねえぞ」というのもある。

 「当然命をかけるものではない。しかし本気でやらないと面白みが分からない」
という感覚に近いのではないかと思う。


 ポーカーなどをしていても、
「今回のゲームはオレが勝つぜ」
という感じで、前回今回次回と続くものを想定している様に思う。

 一日の中でも、週を通しても、「都度一回限り」の連続で、根本がリーグ戦なのである。

 ゲーム要素(この場合は不確定要素の事)に左右される率が高いと思われるトーナメント制より、実力の差が明らかに出やすいのがリーグ制であろう。
 そのため同じリーグで長い間 Game を続けていると、上手い下手が確実に見えてくるから、上手いのは上のクラスへ行く様な感じだ。

 見ている目が、日本人(日本語を使う人?)と較べると長い感じがする。
 
 
 
 ただ、こういうものは、日本が前回の戦争で負けてから植え付けられた意識もあるのではないかと思う。

 戦前の人の話しを聞くと、
「勝っても負けても面白かった」
というのを多く感じたが、今は
「負けて面白かった」
というのはほぼ聞かない。

 勝つのが当たり前で、知っているのが当たり前で、
「そうでないといけない」
という風潮を感じる。

 これが自分で自分をしめている気がする。


 ゲームやトレーニングには正解がありません。

 足し算やかけ算の様な、
 「正解はこれ」
というものがありません。


 だからといって
「当てずっぽうに行えば欲しいものが手に入る」
という事もありません。
 

 今、考えられるベストを尽くして、

 その中で焦ったり慌てたりして、

 泣いたり笑ったりして、

 相手も同じ様にしていて、


 そういうのを楽しむ大人の行為なんです。


1、自分のトレーニングは好きにすべき

 「このトレーニングに付いて評価してください。改善点について教えてください」
 というような問い合わせを受ける事がありますが、目的値や現在までの数値変化がないものもあり、それですと評価も改善点もないとなります。

 自分の好きなものを好きにする事は全然問題がないものです。
 それに他人の評価を求めるから矛盾が生じるのです。
 そんなものは気にする必要がないのです。
 
 
 
2、明確にトレーニングを進めたいのなら、目標値が必要

 明確にトレーニングを進めたいのなら、「こうなりたい」と言う目標値が必要です。
 なぜならば、その目標に対して実行したトレーニングの成果が評価の基準だからです。

 「目的は、東京から大阪に行くことですが、今日は名古屋に到達しました」
となれば 60% を超えた程度の達成となりますが、
 「どこに行きたいか分からないけど、名古屋まで来ました。これは何 % 達成ですか?」
というのは質問にならないのです。

 そのためまずはそこを最初に決める必要が有るでしょう。

 具体的には、
 「プロ野球選手になりたいから、今年中にここまで達成したい」とか
 「今年の競技シーズンでこの記録を出さないと次ぎに行けない」とか
 「3ヶ月後に水着を着るから、それが似合う身体になりたい」
等です。

 これは長期目標であったり、中期、短期だったりしますが、都度明確な方が良いです。
 そしてその達成度を計画的に測り、トレーニングプログラムを更新します。
 
 
 
3、トレーニングの効率を追求したい場合、その求める効率が何なのかを考える必要が有る

 プロの場合はかかる経費よりも時間が大事ですが、それがすべての人に同じかと言うとそうではありません。

 あなたの目標を実現するにあたり、
 「なるべくお金をかけないで達成したい」とか、
 「お金に糸目を付けず半年以内でどうにかしたい」とか、
 「なるべく楽してどうにかしたい」
などの条件が出てきます。

 それらを明確にしないと、効率そのものがありえません。
 目標は高く条件は緩くとなると達成が難しかったりします。
 
 
 
4、プロと同じ取り組み方は必要ない

 一番重要なのはここです。

 プロのトレーナーはお客さま(クライアント)に対して結果を出さないとならないのでこのような事が厳しくなりますが、すべての人が同じに組み立てて実行しないとならないという事は有りません。

 プロの行うトレーニングには明確な目標や予算が有り、その達成の為に行うものです。
これは対象者がアマチュアの方でも同じです。

 しかしトレーニングといえども、趣味性で行うトレーニングもあります。
 そう言うものは、自分の興味の有るものを、自分のペースでやりたい様にやるのでも良いのです。

 それはプロの言うトレーニングとは違っているものなので、それを同じ評価軸でプロの判断をもらおうとする事に矛盾が有るのです。

 そんな事は考えないで好きにやるので良いです。
 
 
 
 日本人はプロと同じ事をする事が良いと考えたり、最初から効率を追求したりしますが、そんな事は必要有りません。

 難しく考えないで興味のあるところから進めて良いものです。

 やり続けているうちに漠然としながら自分の目標が出てきたり、
「これは面白いから、もうちょっと効果的になる様に勉強してみたい」
となってくるもので良いのです。

 そうなってから勉強するもので良いものなのです。


http://hisajp.info/2008/11/post_107.html

競技技術と併せた複合的(総合的)なトレーニング

 これは前々章で書いたような、多方向から見た場合の身体やメンタルの改善や、または競技技術の向上を平行して狙うようなトレーニングと私は考えている。

 前章の「トレーニング単体で完結するもの」とは異なり、どれにでもそのまま応用の効く性格のものではない。

 これは、チーム競技であれば監督の考え方に、また個人競技であれば選手の考え方に、比較的大きく左右される。

 例えばトレーナーが外部から第三者的に見ると
「ここはこのように改善した方が明らかに良いだろう」
と言う点が有るとしても、当事者がそう思わなければ改善策として採用される事はないものである。

 また、専門的な競技になるほど特異性が強くなるため、個人的な技に頼る傾向が表れる傾向にある。
 そうすると、第三者的に見たものが実際の原因と合致しているとは限らない事もある。

 そのため、競技技術に併せた複合的なトレーニングになるほど、高度な分析が必要となり、成績の向上の為にはお互いの見解を一致させる必要があるといえよう。


http://hisajp.info/2008/11/post_106.html
 

http://hisajp.info/2008/11/post_108.html

 トレーニングは、
トレーニング単体で完結するもの

競技技術と併せた複合的(総合的)なトレーニング
に分かれると思う。

 今回はフィジカル面での比較的絞った話しである。

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トレーニング単体で完結するもの

というと何か難しく聞こえるが、分かりやすく言うと「筋トレ」の類いである。
 これらはトレーニングそのもので完結するものとして今回は分類したい。

 これらには
・筋肥大トレーニング
・筋持久トレーニング
・心肺機能トレーニング
のような基礎トレーニングから、

・全身統合トレーニング(クイッククリーンなどで爆発的なに出力を計る)
・クイックネス・アンド・アジリティトレーニング(敏捷性トレーニング)
・プライオメトリクストレーニング(瞬発力トレーニング)
・バランストレーニング
・最大酸素摂取量向上トレーニング
のような、前段階の基礎トレーニングをして身体をある程度作ってから進める発展トレーニングに分かれる。


 高校生として考えると、1〜2年生のうちは頑丈な身体を作りたいので基礎的なトレーニングを中心に行い、ある程度身体が出来てきてから発展型のトレーニングに移るとなる。

 これは高度なトレーニング(発展トレーニング)になるほど身体への負荷が強いためで、身体が出来ていないうちに高度なトレーニングを行うと怪我や故障に繋がるからである。

 大学に進学したり社会人として競技に加わるのであれば、そこでレベルが上がるので、体力レベルがそれに合致しない場合はもう一度基礎トレーニングを行い、基礎的な身体能力の向上を図るとなる。

 やがて競技に必要な体力が付いてくると、トレーニングより競技練習が多くなる。
 しかし筋力が衰えてくると怪我に繋がる場合も有る為に基礎的な体力の維持の為のトレーニングをしたり、競技上不足している問題が身体面に有ればそれを改善する為にトレーニングを行ったりする。


 しかしこの辺りまでは、トレーニング単体として行える範囲として考えられる。
 おおよそこの範囲までは、競技特性による違いは有るが、どの競技を通じても応用の効くトレーニングであろう。



http://hisajp.info/2008/11/post_105.html


http://hisajp.info/2008/11/post_107.html

 何をトレーニングと呼ぶのかと言うと、

「目的の達成の為に、身体やメンタルの能力を向上させる事」

となると思う。
 分け方や考え方はもちろん人により異なる。

 今回はスポーツのトレーニングとして、限定して考えてみたい。


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 クロストレーニング
 これは、普段行っている競技がゴルフのような片側性(一方向へのスイング)の強い運動の場合は、両方を使う様にスキーや水泳をするのが良い、というものである。

 その選手の本職はゴルフだがトレーニングとして行う事はスキーや水泳というスポーツになる。それによりゴルフの能力が上がるだろうからトレーニングである、というものである。
 こういう組み合せはいくつかあるが、何かの際に詳しく書きたい。
 
 

 分析をおこない競技成績の向上を狙うもの
 サッカーのような競技では、フィジカル面の向上が成績に繋がる事が高いと考えられる。
 80分を過ぎた頃からバテてきて相手に点を取られるような場合が考えられる。
 これは監督やコーチが戦略戦術を考えたり技術指導をしても、身体が動かなくなるのだからそれらを有効に使う事が出来ない。

 そう言うときは、今までの試合の分析をして運動量の変化を測定して、バテる理由を明確にする。

 そして問題が間欠持久力に問題が有るとしたら、
「間欠持久力トレーニング」を行い、
「食事面では、90分保つ様に摂取カロリーの向上を計るとともに、数日前から炭水化物の摂取量を多くしカーボローディングを行い、同時に胃腸の負担を少なくしたいので摂取のガサを減らせるように脂質の割合を 5% 上げる」
と言うような事が考えられる。
 これも身体能力の向上で成績を上げる行為だから、広義の意味ではトレーニングに含められると言えよう。
 
 
 
 動態分析
 走、ジャンプ、ハンマー投げ、水泳、体操競技。
 このような競技の場合、映像を撮影し力の発揮方向のベクトルを算出し、そのタイミングと方向が最適化を計る事で成績の向上に役立てる方法である。

 分析は分析者が行う事が多い。
 フィジカルトレーナーは分析結果により必要なトレーニングを計画する。
 選手は自己の映像を見たときに、どこが同時分のイメージと違うかを認識し、それを自分にフィードバックさせる。
 (実際は監督やコーチもここに加わる場合が有る)。

 これらを何度か繰り返し、理論値と実効値を合致させ、競技の向上を図る。

 これらには専門の知識や機材が必要だが、このような分析手法を用いる事で成績の向上につながる事は多い。
 
 
 
 視野トレーニング
 動的な視野の向上や、行動視野(認知される視野)を広げる事で、競技成績の向上につなげるものである。

 例えばサッカーなどでは、他の選手にパスを通すには、どのタイミングでどこを通せば良いかを考えるものであるが、仲間が見えていなければ分からないし、相手チームの選手が視野に入っていないと相手に有利なパスをしてしまう可能性もある。
 このような際に自己に有利に働く様にするトレーニングである。
 
 
 
 メンタルトレーニング
 途中まで上手く行っていたが、勝ちを意識したとたんに身体がこわばり、逆転負けしてしまったようなパターンである。

 これは簡単に言うと
・勝ちを意識する ーー> 失敗したら負けてしまうかも
という思考回路が働くからである。

 「勝ちを意識するな」と指導者はいうが実際にそれは難しい。

 そう言う場合には、
・勝ちを意識する ーー> 1回くらい失敗しても勝っているのだから大丈夫さ。
というような思考回路が働く様にしておけば、実力が発揮できる。

 このようにメンタルトレーニングとは
「こうなったときには、こう考える」
というのを自分に有利な思考回路を作り上げるトレーニングする方法であり、修行から連想される「雑念を払う」というものとは異なるものである。
(トレーニング方法の一環として修行のような過程を経る事は有ります)。


 今回はあえて通常のトレーニングとは異なる範囲を書いてみた。
 しかし広い範囲では大体このくらいまでがトレーニングであろう。


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 競技は専門技術が重要で、大まかにこのように分かれる。

・監督 ーー> 競技戦略に采配を振るう。
・コーチーー> 監督の戦略の実行に必要な、競技技術の向上を指導する。
・選手 ーー> それを実行できるだけの体力と知力が必要。

 競技技術はその種目にしか活きないものである。また専門性が高いもの
となる。
 もちろん応用は可能だが、野球のバッティング技術をマスターする事で、スキーの成績が上がるかと言うと、そういうことは考えにくい。
 
 
 
 対して、
トレーニングはどの競技に対しても普遍的に応用できるもの
となるであろう。

・身体的な基礎体力、栄養、動態分析、視野、メンタル。

 こういうものはサッカーの分析技法がバスケットボールに使えないかと言うと、そう言う事は無く、あくまで身体面からの数値的なアプローチとなる。

 もちろん得意分野はあるので、サッカーを得意とするトレーナーがレスリングのトレーニングを効率よく組み立てられるかと言うと、それならレスリングを得意とするのトレーナーの方がよいであろう。
 
 
 
 今回書いた範囲は、一般的なトレーニングの概念(筋トレや有酸素)とは離れているのかもしれないが、トレーニング、およびトレーナーの範囲というのは、最大限広い意味ではおおよそこのような範囲までだと思う。



http://hisajp.info/2008/10/post_104.html


http://hisajp.info/2008/11/post_106.html

 私はスキーが好きです。


 ダウンヒルのような競技や、山スキー(バックカントリー)、距離スキーも好きです。

 折り詰めの寿司を持って、ちょっと暖かい日にゴンドラに乗って山の方に行って食べるもの、これもまた好きです。

 普通のゲレンデスキー場でゆっくり滑るのも好きですし、小さなお子さんを指導するのも好きです。

 平日の静かなときに、一人で動物を見つけるのもこれまた好きです。


 スキーをするのも好きですし、スキー場そのものも好きですし、あまり関係ないような事も好きです。

 昔、現役だった偏屈オヤジと酒を飲むのも好きです。
 
 
 
 でも何が一番好きかと言うと、ダウンヒルのようなスキーです。

 感覚としては、肩越しの遥か下にゴール地点があって、そこに向けて倒れ込む様に落ちて行く感じです。

 転んで板が外れると、自分で取りに行ける距離ではないで、ちょっと困ります。

 おかげさまで大きな怪我は無いですが、痛い思いや、死にそうな思いは多少あります。


 こういうのはたまの競技に加わらなければ、自己満足だけの話しです。

 効率や危険度など全く関係なく、自分が好きで満足して完結しています。


 偶然、同好だとわかり話しが進む事は有りますが、自分から率先して話す事はあまり無いです。

 飲み会などで趣味を共通としない人に話すとしてもニコニコしながら私は話すらしく、怖さのようなものは感じつつもおもしろがって聞いてくれます。


 こういう自分だけの世界は本当に面白いですし、人の評価など気にしていないので、こういうのは本当に「好き」という言葉でしか言い表せない気がします。


http://hisajp.info/2008/10/post_103.html


http://hisajp.info/2008/11/post_105.html

 日本語の感覚で「私はトレーニングが好き」という意味は、英語では「私はフィットネス(フィットネス・エクササイズ)が好き」と言う方が近いでしょう。

 英語で「トレーニングが好き」と言うと、運動をしている場所で言わない限り「研修が好き」「訓練が好き」となり、新入社員かはたまた特殊部隊の隊員かと思われます。


 また「私はトレーニングが好き」と言われる方のお話を深くお聞きすると、それは何らかの目的の為に行うトレーニングではなくて、特定のトレーニング種目が好きな事が多い様に感じます。

 本当にトレーニングが好きなのだとすると、身体能力の全般的な向上を目指す事が好きになるはずです。

 そうだとすると、私がその人の体力レベルで最適なトレーニングだと思われるものを組むとその人には最高に嬉しいはずですが、実際にそれでトレーニングをしてもらうと、
「走ったり、跳んだり、重いのを持ち上げたり、こんなにきついのはイヤだ。もっと好きな事をしていたい」
となったりします。

 このような場合は、実際には「ウエイトトレーニングが好き」「ランニングマシンのトレーニングが好き」などの、ある特定の方向のトレーニングがお好きな場合が多いです。

 身体能力の全般的な向上の為の本質的なトレーニングをしている訳ではなく、
「好きな種類のトレーニングをしている」
「トレーニングをする事によって、漠然としていても変わって行く自分を見ているのが好き」
というものに近いのだと思われます。


 そうするとこれは本質的なトレーニングという言葉からするとあまり正しい使い方ではなく、
「レジスタンス・トレーニング・エクササイズが好き」
「有酸素系のトレーニングが好き」
と言う方が正確に近いのでしょう。


 但し行為としてはトレーニングなので、表現としては
「私はトレーニングが好き」
という形になるのかもしれません。



http://hisajp.info/2008/10/post_102.html


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 競技成績の向上の為に行うトレーニングだとすると、
1、身体測定や動態検査などで、優れている点、劣っている点を出し、
2、優れている点を伸ばし、弱い点を強化する
という事の繰り返しになります。

 もちろん、状況によりそれぞれ異なり、例えば、
 「今年で卒業で最後に良い成績を出したいので、弱い点には目をつぶり、良い点を伸ばす事に特化し、競技成績を上げるほうがよいだろう」
となったり、

 「この選手は 100m 選手を目指しているが、筋特性や心肺機能からすると 400m の特性が非常に優れている。今年を入れて3年間有るし、その後も社会人になってから続ける意思があるようなので、身体特性に向いている競技へ転向を勧めるのも方法だろう」
となるばあいもあります。

 但しこれは、どこまでトレーニングとして捉えるか、という事も出てきますので、大きなスパンでは上記のような見方をし、短期的には問題を解消したり特性を向上させるものとなることがほとんどです。
 
 
 
 高齢者の方の転倒予防のトレーニングだとすると、
「身体に無理しない範囲で、やれるところからやって行きましょう」
というようなものになります。


 健康増進の為のトレーニングだとすると、
「メタボリック症候群の改善の為のトレーニング」であったり、
「運動不足の防止の為の日々のトレーニング」であったりと様々でしょう。


 美容(シェイプアップ)の為のトレーニングだとすると、
「健康的に見える為のボディバランスの向上の為に筋肥大を伴い、体脂肪率の減少を計る」
の様になるでしょう。


 このような目的に応じ、いくつかの技法の中から適したものを組み合わせるとなります。
 
 
 
 
 例えばウォーキングというものをどう見るかですが、通常は
「誰にでも簡単にできる運動です」
と紹介される事が多いですが、

「では寝たきりの人はどうするのか。人により出来る出来ないが有るのでは、トレーニングとして有効ではない」
ともなります。


 特定の条件下でしか出来ないものは、その種目の善し悪しではなく、
「トレーニング全体の組み立て方として正しくない」
と言う事なのです。


 ここを間違うと、
「ウォーキングは有効でない。なぜならば寝たきりの人には出来ない」
「レジスタンス運動は危険で危ない。高齢者の方が足の上に落として骨折したら入院してしまい、本末転倒だ」
というような局所を見る形になり、これは避けたいものです。



http://hisajp.info/2008/10/post_101.html


http://hisajp.info/2008/10/post_103.html

 日本では「トレーニング」という言葉はなにかの運動やスポーツの為に使われる言葉の様に捉えられていますが、英語では訓練や研修、躾けという意味合いが強いものです。

 「新人社員研修」「支店長クラスを対象とした経営資産管理トレーニング」
のようなものから、
「ドッグトレーナー」と言う言葉や「馬を調教する」というものも、どちらもトレーニングとなります。

 「運動選手の体力強化」と言うような意味はかなり限定された範囲を示す使い方です。
 
 
 
 このようにトレーニングとは、
「当社の社員として働ける様に基礎知識を研修する」為だったり、
「職に就ける為の技術を取得する職業訓練」のように、あらかじめ目的が有るものです。

 私の行っているような運動や身体の為のトレーニングでは、
「何らかの目的の達成の為に、身体やメンタルに改善の必要性があり、その問題の解消や特性の向上のために行うもの」となります。

 このようにトレーニングとは
「何らかの必然性があって行われるもの」
です。

 そのため、トレーニングの善し悪しは、
「(全員が)目的に達する事が出来たか」
「目的に達するまでの所要時間は予定通りか」
「(全員が)安全に達成できたか」
というような達成度で評価する事が出来ます。



http://hisajp.info/2008/10/post_100.html


http://hisajp.info/2008/10/post_101.html

 スポーツへは、何らかの見返りを期待する方が増える様に思います。


 「ウォーキングが好き」と言う人がおられるとしても様々な例があります。

 「ウォーキングをすると気分が良いし、私にはウォーキングが強度的に向いている様に思うから好き」という方がおられれば、

 「散歩がてら季節の植物のスケッチをしながらウォーキングがするのが好き」という方もおられるでしょうし、

 「休みだから、ちょっと歩いて腹を減らして、旨い酒でソバでもつまんで、帰りはバスに乗ろう」という方もおられると思います。


 このように、ウォーキングにより気分が爽快になるような比較的運動の効果を求めている方もおられれば、似た行為をしているが運動の成果を求めていない場合も有ります。

 もし運動成績の向上を求めている場合は競歩となりますが、競歩の選手を見て
「おお、すごいなあ」と思っても、
「競歩をしてウォーキングの成績を向上させたい」とは直結しにくいでしょう。

 このような場合は、
 「あの人は早く歩いていても私はそうする気がない」
という方もおられれば、
 「ゆっくりで良いから、長い時間歩いてみたい」
というものもあります。

 「ちくしょう、抜かれた。抜き返してやれ」
という方も中にはおられるかも知れませんが、しかし相手は何とも思ってなかったりします。

 このように、それぞれの目的が異なるため、成績や結果で順番付けができるものではありません。

 この様な競技成績の向上を主目的としないスポーツが、健康スポーツとか、健康の増進の為のスポーツに分類される様に思っています。

 またこの場合は、目的や目標がそれぞれ異なるため、A という事例に対しては A' という推奨例があるとしても、B という事例に対しては B' しか該当しないとなり、方法論は存在しないとなります。

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 スポーツ(競技)というものは、ルールが決まっていて、その中で平等に行うものです。

 テニスが好き、ゴルフが好き、スキーが好き、などが代表的な例として挙げられるでしょうが、通常このような場合は
「上手くなりたい」という目的や期待を持って行うものです。

 そのため TV で試合を見たり、あこがれの選手に会ったりすると
「よし、オレも頑張ろう」という気になる事が多いです。

 これらはルールが決まっているので、参加者の間では価値観が等しくなりやすく、簡単に言うと試合に勝つと嬉しくなります。

 また、
「試合に勝ちたい」「競技成績を向上したい」という切実な問題や具体的な問題が生じるので、その解決に繋がる答えや、体系付けて組み立てられる方法論が存在するとなります。

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 前頁で述べた様に「好き」というものはそれだけで完結するものなので、問題自体が生じなく、解決というものが存在しません。

 また、本頁の上記の様なそれぞれの目的が異なるものは、それぞれの答えは常に違うとなり、解決に向けての方法論が存在しないとなります。満足度への対応に近いもので、それぞれで異なるものです。

 しかし「競技成績を上げたい」というような具体的な目的が生じるものであれば、それは競技の種類を問わず、解決に向けて方法論が組み立てられるものとなります。


 これは例えば「健康の為の運動」というような比較的簡易な要求だとしても、目的が有れば、方法論で解決できるものとなります。

 また、このように目的が明確なものは技量の高低に関係なく方法論によって解決できるものなので、アマチュアやプロによって異なるものではありません。

 これはどういう事かと言うと、
・プロの求める健康の増進
・アマチュアの求める健康の増進
は同じような方法となるのです。


 しかし、目的がないものは解決すべき問題そのものが存在しないので、どんなに高い知識や技術を持っていたとしても、何も変わらないものです。



http://hisajp.info/2008/10/post_99.html


http://hisajp.info/2008/10/post_101.html

 「子供が好き」「猫が好き」「犬が好き」
 そういうものは何か見返りを期待して行うものではなく、一方的に愛を与えるものです。

 私は猫が好きです。
 猫を見ているだけで幸せで満足です。一年中猫を見ていても飽きません。
 猫とコミュニケーションを図りたいので猫語をマスターしたいと思っていますが、マスター出来なくて今のままだとしても十分幸せです。

 こういうものは、結果を伴わなくても、これだけで完結するものです。
 何らかの結果を伴えば、それもまた嬉しいものです。
 
 
 
 
 「プリンが好き」「料理をする事が好き」「本を読むのが好き」
 こういうものは何らかの満足や実用性を求め行われるものでしょう。

 私は料理が好きです。
 料理をするだけで幸せで満足です。一年中料理をしていても飽きません。
 ある程度自分で好きなものが作れる様になったので、上達の意思が有りません。
 これから先も続けていれば、何かの拍子に上達をする事があるかもしれませんが、積極的に上達を求めている訳でもありません。

 行為と結果を伴い、それだけでほぼ完結します。
「料理をして、おいしいものが食べられる」というようなものです。
 一方的な与えるだけの愛情とは異なるものです。


 とはいえ、これら二つは、その行為をするだけで目的を達成するものがほとんどでしょう。
 これらのような行為は問題が伴わないために、問題の解消や答えというものがありえません。
 他人の価値観に左右されるものでは有りません。


http://hisajp.info/2008/10/post_98.html


http://hisajp.info/2008/10/post_100.html

 このように相手と話せる条件に有れば問題の解決というのは比較的行いやすいものですが、用語がずれていたり、お互いの理解が違っていたりすると難しくなる様です。

 例えば競技の場合は、競技技術そのものは選手の方がトレーナーやコーチや監督よりも遥かに上です。

 監督は、競技戦略の向上を通じて競技成績を上げるものです。
 コーチは、競技技術の向上を通じて競技成績を上げるものです。
 トレーナーは、身体を通じてどのように問題を解決するかを考えるものです。

 そしてこれらの重要性や優先度がそれぞれの考え方で異なります。
 これはある意味一種の賭けなので良い成績に繋がるかどうかは、それも含められるものだと思います。
 競技というのはある意味これで良いのでしょう。
 
 
 
 ではもう少し純粋にフィジカル面の向上を目指すトレーニングの場合はどうなのかを考えてみましょう。
 トレーニングというのは純粋なフィジカルの向上の為に行うものなので、たとえが適切ではないかもしれませんが、病気を直すようなものです。
 「こういう場合はこうする」というのがある程度明確にあります。

 その組み立ては理論的なものなので、データが有り、専門家が見れば、
「こういう風にしましょう」
というのが見えてきます。

 健康マニアな人でも実際に困るとなるとお医者様に頼るものです。そこでお医者様はその道の専門家として解決を図る訳です。

 スポーツやトレーニングの難しい点は、それで死ぬ訳ではないので、そこに本人の主観が入るという事でしょう。
 それが正しいかどうかが分からなくても、また理論的でなくても、それで行えます。
 結果どうなるかと言うと、上手く行く事も有れば、上手く行かない事も有ります。

 これが高度になるほどピンポイントになる訳ですが、今の環境を見ていると、高度な方法や知識が広がる様になりすごく良いなあと思うのですが、反面、どうしてそうなのかがないまま理論だけが広まっているような気がします。

 また、理論的な解決へ至る為の手順というのも抜けたままです。

 これらからすると、方法は知っているけどなぜそうするかの原因と必要性を明確にしないまま、唐突にとある技法を選ぶ様に感じます。

 そうすると、ピンポイントで狙える分、外したらリカバーが大変な気がします。



http://hisajp.info/2008/10/post_97.html


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