研究というのは、過去に言われているものを疑う事から始まる仕事なので、過去の事を知らないと出来ない。
今までの連綿と続いてきた珠玉がごときエビデンスを知らないとダメなのだが、師匠の言われた事を疑ってみないとダメな世界なのである。
最初から思いっきり矛盾しているのである。
こういうところだと、常識という定義が壊滅するのである。
いや、壊滅ではない。常識がないと常識を疑えない。
ここでもう一回矛盾が生じる。こんなのが延々続く。
子供の遊びみたいだ。子供に失礼か。
「我が辞書に常識という言葉はない」
ではないが、うちの会社では「常識」という言葉がほぼ全く使われない。
これは私が常日頃から「常識など無い」と言っているので、使いにくいのだと思う。
元はもうちょっと柔らかくて「常識という言葉を使うな」「常識に頼るな」だったが、これは「常識など無い」と言えるだけの自身が自分になかったのだと思う。
と言っておきながら、私自身は「常識的に考えてそれは無理でしょう」というようなことを言ったりする。
とはいえこの時に相手に納得が生まれれば良くて、
「毎日3時間しか寝ないでまともに食事も摂らないで、それで良い競技成績を残すのは、常識的に考えて無理でしょう」
というような時に使ったりする。
これで相手に納得が生まれず、「そんな事はあり得ない。hisa の常識は間違っている」と返されるのであれば、改善を私に相談する必要はなく、その人は既に世界一になっているはずなのである。
そうすると
>「毎日3時間しか寝ないでまともに食事も摂らないで、それで良い競技成績を残すのは、常識的に考えて無理でしょう」
というこれは、「世間的な常識というより、当事者間の共通認識と変化して存在している」と言えるのだと思う。
私の中で常識と言えるのは、
「常識などない」
「常識と言える唯一の事は、人間はやがて死ぬという事だけだ」
という事だけなのだが、なんだかんだ自分の常識が普通だと思っていたりする。